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ほんとはいいたかったこと・・・鈍間雑記

『浮標』@りゅーとぴあ劇場(10/20)

公式HP】←読み応えありです。
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~葛河思潮社 第2回j公演~
作/三好十郎 演出/長塚圭史
 
出演/
田中哲司(久我五郎=画家) 松雪泰子(美緒=妻)
佐藤直子(小母さん)、深貝大輔(裏天さん)、
平 岳大(赤井=兵隊さん) ほか




東京公演から1ヶ月、大楽の新潟公演を観劇。
ホワイエの人だかりに何だろうと近づいたら、作品の背景についての解説の展示。
東京公演でもあったのかもしれませんが、私は気付きませんでした。
“兵隊さん”も実在していた方なんですね。

『浮標』は三好十郎の私小説、アメリカ開戦前夜の物語です。
流石に妻が左翼活動家だったことを匂わせる場面はありませんでしたが、「御国の為」の時代に「生きること」をテーマにした(私はそうとらえました)新作を上演できたことに少し驚きました。どきっとする台詞もちらほら。また私の考えすぎでしょうか?

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セットは周りを黒い木枠で囲った砂浜、両端に椅子が並べれれていて、出番の無い役者さんたちが座っています。東京では下手7~8列(だったかな)席で「公園の砂場にも見えるな」と思いましたが、新潟は2F中央のど真中席で「プールみたいだな」と思いました。

お芝居の前に演者全員が黒尽くめで木枠に並び、長塚さんのご挨拶がありました。
時代背景とか、上演時間が長いので力まずに観てほしいとかの注意事項(?)と、「現代」ということを強調していたような気がします。開戦前夜に生きている気になってということなのか、この時代に起きていたことを現在に置き換えてとのことなのか考えてしました。何でも3.11に関連付けるのは考えすぎだろうと思いますが、この作品に限らず生死が関わると考えるようになってしまいました。
(パンフの対談で長塚さんが「観客がどこかしら震災に関連づけてしまうのも仕方ない」と仰ってるので、私の考えすぎだと思います。)
(震災前の公演は未見なので、この挨拶が前回もあったおのか分かりません。)

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砂浜の下から万葉集を掘り出す久我五郎。
この万葉集が後で大きな意味を持っていることがわかります。舞台上手の久我に当てられたピンスポットが消えると砂浜は久我の家に変わります。

舞台中央にいるのは安楽椅子に座った美緒、お風呂場にいる設定(仕事場)の五郎以外は全員が両端の椅子に座り、下手側に座った小母さんと、上手側に座った魚屋さんのやりとりから始まります。
買った魚を手にして木枠を小走りする様子から木枠は廊下になり、木枠から砂の上に下りて美緒の部屋に入ったことになります。美緒と小母さん二人の短い場面で、美緒の体調が悪いこと、小母さんの耳が遠いこと、家政婦兼看護人の小母さんが、この地の昔からの住人でないことがわかります。
庭で食事をしようと、五郎が美緒を抱きかかえ、小母さんが安楽椅子の位置をを移動させることで、この場所は室内から庭へ移ります。

砂浜が場面によっては千葉の海岸になったり、久我家の部屋になったり、庭になったり。
演技の殆どは砂の上なので動きにくかったかもしれませんが、私はこのセットと演出が気に入ってます^^

セットは気に入ってますが、舞台全体としては微妙^^;

正直、五郎(田中)の台詞の殆どが絶叫系だったのが辛かったです。東京で「何でこんなに叫んでばかりなんだろう?」と思ったら、あえてそうしていたようです。後日パンフを読んで知ったのですが(※)、初演も叫ぶ発声が多かったようですが、今回はさらに意識して叫んでいたようです^^; まぁ、感じ方は人それぞれですから、五郎の必死さが伝わって感動したという方が大勢いらっしゃると思いますが・、私には合わなかったみたいです。

特に、五郎と金貸の尾崎の場面は一本調子(と感じた)の長い二人芝居の間は眠くなって辛かった。
東京も新潟もこの場面は辛かったけど、新潟は疲れがとれないせいか辛かった。その辛い眠気から救ってくれたのが裏天さんです。
裏天さんの登場で一本調子から開放され、オペラグラスで裏天さんおっかけてました。
裏天さんは五郎の借りてる家の大家さんで、何かのお店もやってます(乾物屋さんだった気がしますが違うかも)。"裏天”は鼻の低さを小馬鹿にした仇名でなんですが、この場面だけのためにつけた仇名なので、隠された意味があるのかなと思いましたがどうなんでしょう?また考えすぎでしょうかね?

裏天さんの人柄の良さと生き抜く力を感じました。右とか左とか関係なく、表も裏もなく、学もなく、時流に逆らわず、世の中がこうだから仕方ないと諦めて、でも次の生き方探すみたいな。現在を生きることだけを考えていて “万葉人”に近いのでは?

(※ 「ヘタだけど何かいいね」と思わせる“素人っぽさ”をまとっていた方が、五郎の言葉は伝わるもの大きい・・・ とパンフで田中さんは仰ってます。)

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小母さんを演じた佐藤さんが一番の好演だと思います。
しつこいですが(ファンの皆さん怒らないでね^^;)本気で五郎の絶叫台詞には疲れてしまって、出ずっぱりだし(泣) 小母さんと美緒の二人の場で「お芝居を観にきたんだ」って思い出す感じ(苦笑)
美緒は病であまり声を出せないので、二人の場面は小母さんの1人芝居に近いのですが、ころころ変わる表情や所作に見入ってしましました。

“兵隊さん”の赤井を演じた平さんも好演でした。
私がイメージする良家の青年将校にぴったりの好青年ぶりと、出征前夜の死の覚悟のようなものを感じました。台詞も聞き取りやすかったし。美緒の弟とのやりとりで、死を覚悟した者とそうでない者の差がはっきり出ていたと思います。
赤井を妻と二人きりにさせようと、美緒が声を荒げて五郎を外出させようとする場面、五郎の鈍感っぷりが可笑しかったです。

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タイトルの“浮標”が台詞で登場するのは、五郎が“赤井夫妻をふたりきり”にさせる為、海岸にでてきた場面で1度だけだったと思います。
この場面では医師と医師の妹を相手に、本音というか弱音というか不安というか苦悩というか、美緒には絶対見せない部分を出します。この場面の五郎には狂気を感じました。

“浮標”の意味は何でしょうね?パンフの対談で長塚さんんもハッキリわからにと仰ってます。
私も、こういうことかなって思っていることがあるんですが上手く文章にできません。波に揺られて動くくらいで自身では何もできない、大きな波が起きれば大きく揺れるし、穏やかな波では“ぷかぷか”浮いているだけだし、美緒の病状と同じです。

一人になり、砂浜で失神したように眠る五郎の隣に赤井が腰を下ろし、静寂。
回復の見込みがない、妻の死を受け入れられないと五郎と、死を覚悟して、会うことない子供に命を託した赤井が対照的に感じました。

パンフで、作品についての役者同士のディスカッションでは戦争肯定なのか否定なのか結論がでなかったとありました。五郎が赤井に対して「俺も戦争にいきたい」という台詞があり、そこからも戦争というものをどう考えるか五郎=作者の迷いを間感じるというようなことも書いてありましたが、私はこの台詞、五郎は逃げたかっただけじゃないかなと思います。借金とか、美緒の病とか、仕事のこととか、赤井と会って話すときだけは忘れられたんじゃないかなと。つまり・・・作者はこの作品に肯定も否定もいれてないと思います・・・なんて恐る恐るいってみる(汗)
赤井夫妻の訪問から海岸でも医師兄妹のやりとりの間で、私はそう感じました(汗)


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小母さんが美緒に「子供は前に生きていた人の生まれかわりだから・・・」「兵隊さんに子供が生まれることが嬉しい」と語る場面が好きです。
ここでは実と自分が死んで誰かに生まれ代わった後の話を冗談っぽく美緒に話します。いつか必ず人間にはしが訪れる、小母さんは美緒の死の覚悟に気付いていたんだと思います。五郎がいない、二人きりの時にこんな話をするのはそういうことだと。表情豊かに一人でずっと話してる小母さんと、嬉しそうに話を聞いている美緒に、海岸の赤井も頭に浮かんで哀しくなります。



「万葉人達の生活がこんなに素晴らしかったのは、生きることを積極的に愛していたからだよ。自分の肉体が嬉しくって嬉しくって仕方無かったのさ。 ・・・」

「俺達は美しい、楽しい、かけがいのない肉体を持っているんだ。ゆずるな、石にかじり付いてでも赤っ恥を掻いても、どんなに苦しくてもかまう事とない・・・・」

五郎の台詞で万葉集を読んでみたい気持ちになりました(多分・・・読むことないと思うけど)
美緒の最期、セット両端に座っている役者さんたちが、静かに美緒の死に見届けようとしていると感じました。(パンフで水谷八也さんが「死者の眼」と仰ってました。どうして自分ではこう、いい言葉が浮かばないんだろう。同じようなことなのに)
五郎の絶叫発生が苦手と書きましたが、最期は別です。
観客を含めて約1千人が美緒の安らかに旅立てるよう見守る中、ただ一人五郎だけが諦めきれないと感じました。



でも、しつこいけど、やっぱり
この戯曲を、このセットで、違う久我五郎が観たい・・・かな。


パンフは読み応えありで買ってよあかった^^
お財布会議で買わないのも多いのです。
1000円でこの内容はお買い得♪
by k-mia-f | 2012-10-24 21:37 | 演劇